プラモ狂四郎ができるまで

散逸している誕生秘話のまとめ。

判明している情報をまとめると、
(当時は小学生向け雑誌の「コロコロコミック小学館)」が90万部に対し、後続の「少年チャレンジ(学研)」「まるまるコミック(徳間書店)」が10~15万部とまだ参入の余地があった※continue_vol36より)
コミックボンボン」はガンプラブームに乗る形で創刊(1981年10月)され、
ガンプラ特集記事の評判が良かったことからガンダム漫画の掲載が企画された、
当初は「劇場版ガンダム(81年3,7月,82年3月公開)」のコミカライズを企画したが理由は不明だがサンライズに断られ、
急遽依頼を受けた安井尚志氏が代案として企画したのが「プラモ大作戦(仮題)」後の「プラモ狂四郎」である。

12月10日にやまと氏を呼んで会議が行われたそうだが納期が12月20日という事は既に決まっていたのであろう。
しかし、安井尚志氏の原作はまだ上がっておらず…その間はプロットからキャラを起こしカラー扉を描き準備していたそう。
14日の夕方に原作が届き、ネーム作業、妻をアシスタントに原稿作業をして、なんとか締め切り1日オーバーの21日にカラー扉付き33ページを完成させたのだった。
(なお、この1話はコミックス化に当たり52ページにページ増&大幅に書き直されている)


この納期がギリギリであったことにより当時異例の「キャラクター的解釈の目玉や漫符のついたMS」の掲載が通る事となったが、リアルさを重視していたモデラーや編集部の評判は悪かった。
しかし、読者アンケートでは7-8割を取り3位という好スタートで受け入れられた。後のSDガンダムブームの原点と解釈すればこれは大きな発明だったと言える。

参考:
ホビージャパン 2000年10月号 17P安井尚志氏のインタビュー
シミュレーション、GO! - 続・やまと屋ブログ堂 - July 29, 2007

(仮題)「プラモ大作戦」と書いたプロットを手渡され講談社初の児童誌なる「コミックボンボン」の経緯と作品の事柄を説明されると、仕事に飢えていた僕は即刻「OK」。〆切りはカラー扉付き33ページ、20日厳守!…今日は12月10日…随分と急な話であったが、アシスタントのいない僕はなんとか間に合う期日だった…ところが安井氏はこれから原作を書くと言う(汗)。取りあえずモデラーさんがグラビア撮影で用意した1/144ガンダム(※この時まだGアーマーに跨れるようにリックドム関節パーツを使った改造は成されていない)、1/144シャアザクGアーマーなど第1話に登場するプラモを借りてプロットからキャラを起こしカラー扉を原作が上がるまで描く事にした…後で分かった事だが、当時公開中の劇場版「機動戦士ガンダム」の漫画化を企画した物の日本サンライズ(現・サンライズ)側から承諾が得られず、急遽プラモデルに変更され漫画家も二転三転した結果だった。

そして、タイムリミットが迫る中ついに安井氏の原作が上がってきた!タイトルは『プラモ狂四郎』!!
14日の夕方で、ネームに2日として正味3日しかない!年末進行で友達の手伝いも確保出来ずド素人の妻の手を借りてでも描き上げるしかなかった…〆切りを1日オーバーして『プラモ狂四郎』の第1稿が上がった。

ガンプラブーム - 続・やまと屋ブログ堂 - July 30, 2007

…僕はガンダムファンの熱狂さを知らなかったから平気でモノアイに目玉を入れたり、怒れば頭にバッテン印も入れたガンプラ黎明期とは言え「児童漫画とはこんなもんだーっ!」てくらい熱く自由に描いた。案の上ボンボンの特集ページを担当するモデラーさんや編集部まで反応が悪かった…前回も書いたように年末進行で時間が無い…そのまま掲載するしかなかった…「僕は降板もありうると確信した。」…ところが年が明けてコミックボンボン'82年2月号が発売されると事態は一転いきなりトップ、読者アンケートの7、8割が『プラモ狂四郎』で占めていた。僕は読者に救われた…低年齢層にガンプラブームの兆し…『プラモ狂四郎』単行本発売日の当日から重版の連続…やがて第1次ガンプラブームが加熱する。

コンティニューVol40 2008年6月 125P「やまと虹一インタビュー!!」より
プラモ狂四郎前夜(2024/06/15) - プラモ狂四郎STYLE

印刷所の年末進行で正月休みに入る為、カラー扉付き33ページを3日間で仕上げて欲しいとの要望…通常、〆切は前倒しで設定しているので、多少の余裕があるものと高を括っていると、安井氏はこの状況下でこれから帰って原作に取り掛かるというので、僕は眩暈がして椅子から転げ落ちそうになった。
※上にあるように依頼受理時は10日間あり、原作到着から3日間が正しいと思われる

たかが漫画、されどガンプラ(2024/08/12) - プラモ狂四郎STYLE

締め切り当日、いつもの喫茶店に田部さんが遅れてやって来て席につくなり開口一番「読者アンケート全体の3位だった」と聞き涙がこぼれた。不安視する編集部とは裏腹に若年層の子供たちは柔軟に僕の目玉ガンプラ受け入れてくれたのだ…読者に救われた!これでプラモ狂四郎のコンセプトが見えてきた。